神様の思召と、人間の考へとは兎角違うものである。人間の考えでこれが好かろうと思っていても、神様の御考へではそうでない時がある。このことは教祖が御昇天せられた時のことを思うとよく分かるのである。神様はその時に高弟の方々に対して「扉を開いて世界をろく地に踏みなれそうか、扉を閉じて世界をろく地に踏みならそうか」と仰せられたのである。そこで高弟達が協議された結果、何でも開くと云うことは良いが閉じると云うことは思わしくないと云うので、遂に神様に「扉を開いて御守護をお願います」とお答えになったのである。
ところが神様は「皆の心は神の心に叶うた。なれど皆の思召とはころりと違う。」と仰せられて御昇天遊ばれたのである。今から考えますと、丁度高弟達が教祖に早く御昇天下さいとお願いした様な具合になっているのである。
神様が「扉を開いて世界をろく地に踏みならそうか」と仰せられた時に、高弟の方々は早く道を広めたいと思っておられたものであるから、神様が扉を開いてと仰せられたものだから、この道を早く世界に広めようかと仰せになったことと思って「扉を開いて御守護下さい」とお願いされたのである。こゝが神様の思召と人間の思案と違った所である。御教祖の身体は、神の社として神様が貰い受けになっているのであるから、その扉を開くと云うことは即ち教祖の御昇天を意味しているのである。それで神様は道を早う広めたいといふ皆の心は神の心に叶っているが、神の思惑と皆の思惑とは違うと仰せられたのは、こゝなのである。
この様に人間の思召で神様の深い思召を悉く知るということは、到底不可能のことである。故にお道に入って居っても、人間思案だけを以て、神様の思召が悉く分かっているという訳には行かないのである。自分がお道へ入ったのはこうだからと云って自分の身上だけを根底として、道はこうだと独断して終ったならば大きな間違いを生ずるのである。神様は永い思案を以てこの道をお始め下されのであるから、僅かな人間心を以て、道はあゝだからとういう推定は決して出来るものではないのである。
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