増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

神一条の道 一(二)


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外に道を求めるのではなく、目に見えぬ心の中に求むべきであります。目に見える世界の道はいくらでもあります。けれども一名一人限りの心を運ぶ道、神に到達する心の道はただ一つのであります。そこでこの道はうわべの道ではありません。心一つを治めて行く道であります。けれどもその心は、道すがらを踏まないことには治まらないのであります。これを解り易く言いますと、めい/\の濁った心-人間心や物心-を去って、清水の心にならなけばならならないのであります。この道すがらがお道であります。けれども濁った心すますと云うことは、実地に当って見ると中々難しいことであります。人を見てハット思うことがありますが、それではいけないのであります。何故いけないかと云いますと、それは前生通った因縁があるからであります。その因縁が濁った心を出させるのであります。例えば酒呑みが酒を呑んだら悪いと云うことが知っていながら、酒屋の前を通ると、酒が呑みたくなる。又女狂いをする者が、これは悪いと知りつゝも、夜火がつくと落ち付かなくなる様に、因縁のこうせしめるのであります。因縁と云うものは丁度鏡にこのコップが写った様なものであります。拭いても拭いてもその影は消えないのであります。これを少しも解り易く話ますと、例へば神戸の元町の様な繁華な路を歩いていりうと、ぢきにあれが買いたいこれが買いたいと云う心になるのであります。この原因は自分の懐中に金があるからであって、これは金銭について因縁であります。けれどもその金をどこかで落してしまへば、もうあきらめがついて、買いたいと思わない様になるものであります。

又めい/\に埃を積んでいるから、心に間違いが起り易いのであります。心に間違いがあるから、心が悪くなるのであります。清水の心になってこそ、どんなものでも洗へるのであります。この清水の心とは、神の心でありますから、神様に自分の濁ったl心を洗って貰はなければならないのであります。それを洗って貰う道は、教祖五十年の道であります。