増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教祖略伝 幼時(二)

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教祖手作りのぬいぐるみ


教祖は以上の如く、幼少の時より怜悧の質であらせられたが、又愛情深き性能をも有せられた。七、八歳の頃、麦秋や米秋で多忙なるを見て、自ら隣家の子供を遊ばせ、泣く児があれば、父母より貰った菓子を与えて慰め、又自分の作られた巾着や糠袋を与えて、村の子の喜ぶのを見て楽しみとせられた。この教祖の愛情深く慈愛に富ませられたのを語るものである。

殊に教祖は幼年の頃から、俗にいう細工物に秀でておられた。飛ぶ鳥を見、走る獣を見、咲く花を見ては、直ちにその形を作りたもうた。後年針子を集めて裁縫を教えられたが、これを見ても如何に教祖が針持つ術の天分が豊かにあったかが想像される。

今一つは教祖が幼少にして、宗教的感化を受けられたことである。前川家は浄土宗の熱心なる檀家であったから、教祖は朝夕母の膝下に於いて、その感化を早くより受けられ、厭離穢土の思想を抱き、遂には尼法師たらんとの心願を持せられるに至った。

これを要するに幼少時代の教祖は、至極平和な村里に於いて、幸福なる家庭の長女として生まれ、怜悧な、しかも素直な愛情に満ちた性能を自由に発達せしめつつ宗教的感化を受けられたのである。

 

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教祖略伝 幼時(一)

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中山みき生家前川家


我が教祖は寛政十年四月十八日、大和国三昧田村の前川家に誕生あらせられた。前川家は領主藤堂家より無足人として名字帯刀を許されたる豪家にして、父は半七、母は絹子といい、教祖は二男三女の瑞雲棚引いて、里人をして奇異の感をお越さしめたと伝へられる。

教祖は三歳まで子守の世話を受け、四歳より母親の膝下で、種々の教養を受けさせられた。五歳の頃より縫物を学び、糠袋、編巾着、涎掛等を製作遊ばされ、八、九歳の頃より機を織り、十二、三歳頃には既に大巾木綿を断ちて、衣類を仕立てられ、縞物の機も織らせられるに至った。

又七歳から十一歳まで五ケ年の間、寺子屋に通って、読書、習字等、当時の女子としては、普通一般の教育を受けさせられた。

 

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霊救(二)

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布留御魂神をお祀りする三島神社の獅子(吽形)

神の出現はそれが既に人類に対する大なる恩寵であった。その霊救を受けんと欲せば、先ず教祖の真実を受けねばならぬ。教祖の真実に同化され教化され霊化される所に霊救は添うのである。

教祖五十年の難儀苦労の道は、この真実の心を万人に移し宿さんが為である。何の議論もない、何の理屈もない、唯その道を踏み、その御苦労を味わい、教祖の心をそのまま我が胸に宿し移したる時、不可思議の霊救は直ちに下るののである。

霊救は神秘であるが故に奇跡という。奇跡を否定せんとする者は自己真実の否定である。奇跡は真の心の願いより見出す神の姿である。

 

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霊救(一)

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布留御魂神をお祀りする三島神社の獅子(阿形)

天啓によれば、不思議は道である。神が人間の真実を受け取って、その真実に与へられる霊救は、人間心の窺はれぬ神秘である。人間はただその足音をたづねて奇跡と名づけるのである。

霊救が肉体に現れたる時、不治の難病が忽然と平癒するである。一家に現れたる時、一家の因縁は切れ、波瀾は円満に治まるのである。商売に現れたる時、失敗は転じて利益となり、作物に現れたる時、不作は豊作となるのである。

国家に現れたる時、国家は安康を保ち、全世界に現れたる時、世界の平和が実現するのである。

この霊救を得んと欲する者は、神の霊化を受け真実心に帰らねばならぬ。神は人間を助けたい心であらせられ、人間は助かりたい心であっても、通う道なくては神の助けはこない。神は人間の真実を通じてのみ人生の表に現れたもう。

教祖の真実を通じて神は人間の表に現れたもうた。

 

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神楽勤(二)

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をもたりの命神楽面スケッチ


この意味から神楽勤は二重の意義がある。一は神を勇める道であり、一は人間が霊化される道である。従って神楽勤を奉行する瞬間は、神と人の霊が抱合融一する時である。

更にその内容より見れば、神楽勤は一言一句の言葉にして、宇宙人生を貫く真理を詩歌の形式をかりて表象されているのである。さればその意義を生活の上に移して思考すれば、一句千巻の書を作る至深の背景を持っている。その手踊の形式も真理の形象化であって、その意義を悟る時至遠の妙味を感ずるのである。

神楽勤は大体に於いて真実心を治むる者の一手一つの実行化であって、個人の真実から進んで団体の真実に神の恩寵を受くる道である。その当然の結果として、個人に与えられるよりも大なる恩寵の下るは明らかである。故に神楽勤の効果は小は人事より大は国家の事件に及ぶのであって、甘露台が建設せられたん後は、この神楽勤によって天より甘露が与えられるのである。

 

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神楽勤(一)

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くにとこたちの命神楽面スケッチ

天啓によれば、神楽勤は人間を霊化する本教の最高儀式である。その神楽歌は教祖が天啓を受けて慶応三年に製作さられ、それに教祖自ら音調と舞踊の形式を定めたもうたのである。

神楽勤は本勤と手踊りの二種より成る。本勤は甘露台を中心として、唯地場に於いてのみ行われる勤めにして、手踊は各地に於いて随意に行う勤めである。従って本勤は本教に於ける祈祷の最高の儀式であって、手踊は世界を霊化する勤なので陽気勤という。

祈祷として最高の儀式たる本勤は、その目的に準じて種々なる区別がある。手踊は人心を霊化し世界を陽気化するのが唯一の目的となっているので、その式は全て同一である。

神を信じる者、因縁の解脱を欲する者、真実の霊化を受けんとする者は、この神によって定められたる手踊を奏せなければならぬ。何故なら神の心に同化せられ、悪因縁より転じて白因縁に移るは、この手踊より湧く感激に導かれねばならぬからである。真なる感激は人を神一条の世界に導く渡し船である。

                            

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真実(二)

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 天の理を我が理として生きる真実の生活は、天の理が働く限り我が真実が働くのであるから、天地の無窮なるが如く、理に生くる者は末代に生きるのである。末代に生くる者は死と生は古き衣を脱ぎて新衣を纏うが如く観するが故に、生死に超越して末を代生き通りである。

 神は教祖によりてこの真実の一義を明らかにし、神一条の世界に於いて神人合一の陽気暮らしを始めと意志したまう。

されば真実に生きんとせざる者、理を踏まんとせざる者には、神は理を以てその誤りを示したまう。これ手入れ手引きにして、病気や不幸はこの意味に於いて神の人間を愛したまう慈悲心の現れである。

 かく神は真実を欲したまう。故に真実を以て神に祈願する時、始めて神を動かすを得るのである。霊救は唯この真実にのみ与えられる神の特徴である。されば人間はこの真実を自覚して信仰を全うせなければならぬ。

 

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真実(一)

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天啓によれば、真実とは埃を払い悪因縁を脱して自覚したる霊をいうのである。霊は自我でもあり真実であって、その真実がそのまま働いたのを誠という。故に誠は霊の理にして、霊は神の分霊なれば、霊の理は天の理である。されば真実の心の理は神の理なる故に、理を通して真実は神と相交わるのである。日々に受取る中に唯一つ、誠一つが天の理、天の理なれば直ぐと受取り直ぐと返すと説かれる所である。

要するに真実と神との関係は密接不離である。

その真実の心の前に展開する世界は神一条の世界である。神の世界に於いては人は神と交わることを得、神を親として、人間は一列兄弟たることを自覚し、更に人も神の霊に於いて生き、我も神の霊に於いて生きるが故に、全ての霊は神に於いて一如たる事が悟領されるのである。

人間全ての霊は神に於いて一如であるから、人の霊の苦しめる我が霊の苦しみである。人の霊の喜べるは我が霊の喜びとなる。これ助ける理が助かる、立てる理が立つという微妙の天理であって、真実の自覚が理の世界に於いて自ら会得する理法である。

 

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因縁(二)

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前生の因縁を悟り、今生通る道すがらを明らかにすれば、来生の因縁が予知される。何故なら、明日の日は今日の心が現れて来るもんのであるから、この理より考えて、来生は今生の心使いの理が現れて成って来る因縁となるは明らかである。

過去より現在に、現在より未来に流れ行くこの因縁の理を自覚した時、この世が理詰めの世界であり、理は神の働きであるから、神の世界神の支配たる事が自得できる。同時に悪因から解脱して真に生きたいという要求が雲の如く湧いて出てくる。そこに苦悶が生じ孤独が迫り来る。

人間の霊を曇らす埃は払うて、鏡の面に映る万象の姿は取り去ることは出来ぬ。因縁の心であるこげ付きの理、錆付きの理はこれである。しかし血を離れて大空を映す時、心が神に向かえる時、何の影も無い。人間の心が真正面に神に対する時のみ、悪因縁は白因縁に転せられる。

神を念じ神のままに従い、心に欲念の影を持たぬ、この心が足納満足の心である。因縁を切るにはこの心より外にない。何故なら、足納は前生因縁の懴悔の道であり、満足は天に継る理であるからである。しかし二つの理が心に治まるには、そこに年限の理がなければならぬ。その年限の理於いて悪因が白因縁に移り行くので、その間を因縁報じの道という

 

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因縁(一)

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天啓によれば、本教は因縁切の道である。如何なる悪因縁も白因縁に転せられるべき道である。神の自由用を得れば因縁の転換を全うしたのである。

その因縁とは人間が神に創造せられて以来、生死の変遷によりて人間が心の一つの理を使うて霊に付けた埃と徳であって、埃は悪因縁となり、徳は白因縁となって現世に現れ来るのである。故に成るも因縁成らぬも因縁、因縁なら通らねばならず、成るまいと思うても成って来るのが因縁で、人間の力ではどうとも出来ないのである。その現れて来る今生の因縁を大切にすれば、土地の因縁、時の因縁、血の因縁となるので、その理を深く思案すれば、前生の因縁が悟れるのである。

 

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八埃(二)

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埃の心が身の内にあれば、神が入り込んで働くことが出来ない。綺麗な仕事は綺麗な所でするものである。埃だらけでは神の入り込みなく、守護がなかったなら、借物の身は思う通りに働かぬ。病気や不具というのうは神の働きが無いからである。
故に病気になれば神が心の掃除をせられるのであるから十五歳の時より使うた心を調べ、埃の心があれば懺悔して払い、霊そのままの真実の心になったら、閉めた戸を開けば日が差し込む如く、神の身の内へ入り込んでお働き下さるから、いかなる難病も掻き消す如く平癒して、身の自由用を得るのである。
されば人間の病気は神が人間の心の埃を清められる道具である。心澄んだら道具の病気は不要となる。この理が分かれば世界と世界の病の理も分かる。世界の病む理が無くなれば世界が治まるので、神は道具によって世界一列を澄ますと仰せられたのである

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八埃(一)

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天啓によれば、人間の霊には善悪の区別はないが、心一つの我の理が働くので善と悪とが現れて来る。教祖は悪や罪やといへば人が嫌うから埃と説かれた。埃とは明澄たるべき人間の霊を曇らす心であって、それを八つに説き分けられてある。
ほしいとは心を尽くさず身を働かず、物を欲しがる心である。をしいとは身の働き心の働きをせず、出すべきものを惜しがる心である。かわいとは我が身我が子我が家のみを可愛がる心である。にくいとは我が身の誤りを思わず、困ったからとて人を憎む心である。うらみとは思う事が思う通りにならぬからとて人を怨む心である。はらだちとは心の小さい所から思うままにならぬとて怒る心である。よくは有るが上にも物を蓄めようという心である。こうまんとは人を見下げ、自分が人より豪いと、何に付けても高ぶる心である。この八つの心使いが霊の曇りとなる埃である。

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借物(二)

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人間は十柱の神々の働きで造られた証拠に手足の指が十本となった

既に身上が神の貸物なれば、身上以外のものは有形たると無形たるとを問はず一切借物である。唯人間はこの世に於いて借物を支配する徳を付与されているのみである。されば霊に於て使用したならば、何時迄も借用が出来るのであるが、霊ならぬ人間心たる我がの理に於て使用するので、時に神よりその使用を止められるに至るのである。
その神よりの禁止が人間の病気となり、不幸となって現れる。その病気不幸は人間の心通りならぬ。我がの心通りならぬは我が物でないからである。我が物でなければ借物である。
この貸物借物の教理が会得出来ねば、その他の本教の教理は一切分らない。それ故教祖はこの理を教えの台とし、この教理を聞き分けて神の恩を知り、その恩に報いるのが神に仕える道であると仰せられた。

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借物(一)

 

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人間は十柱の神々により造られており、その心遣いの理によって神々が守護している

天啓によれば人間は永劫の昔神に創造さられたのみならず、宿し込むのも月日、生まれ出るのも月日の守護によってこの世の生を得、その生存も神の守護あって始めて全うするを得るのであるから、人間の身は神によって造られ、神によって保持されているのである。これ人間の身は神よりの貸物、人間からは借物と仰せられたゆえんである。

身上が神よりの借物であるならば、その借主は誰であるか、これはいう迄もなく人間の霊にして、霊は神自らの分霊であるから、人間の霊に於て生き、霊を以って身上を使用すれば、身は自由用を得るのである。霊に於て生くる小児に年と共に心が生ずる如く、人間も永き生死の因縁によりて心を生じ、その心を以って身を使用するに至った、その心が普通いうところの我の内容なるが故に、心が一つが我がの理となる。

我がの理である心に霊そのままの働きなす場合と、霊と離れて働く時がある。霊のままに心が身を使用する時、身は自由用を得るが、霊と離れて心が我が身を使用するば、身は自由用にならぬ。何故ならば身は一人限りその霊に貸し与えられたので、我がの理たる心は借主でないからである。従って身は霊の通りになっても心通りにならぬ。これ人間より見て神の貸物たる実証である。

 

甘露台

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石造り二段の甘露台

天啓によれば、地場が人間創造の地たる証拠として、甘露台が建設さられるので、その甘露台に下る甘露は元の親たる教祖に与えられ、人間の壽命薬として分け与えられるのである。世界の子供助けたい一念の教祖は、一時も早く甘露台を作り上げて、世を救い人を助けんと急き込みたもうた。

甘露台の形状は六角形より成る高さ八尺二寸の大小十三段の石造の台にして、頂上に平鉢を置き、その中へ力物を入れ、神楽勤めを奏して祈念すれば、天より甘露が降るのである。その甘露は埃を払うた真実の人のみ与えられるので、それを食すれば百十五歳の天寿を全うするのを得るのである。

教祖在世中神意によりて、この甘露台は二段まで造り上げられたのであるが、当時の警官がその台を取り払ったので、神の残念となり、甘露台を建てて世を救わんと思召されたのが、世界一列の心を澄まして最後に甘露台を建てんとその模様を変更せられた。

この時より甘露台は信者の理想として、その将来に輝き始めた。従って甘露台の建設は人心の澄み切った表象となるので、神一条の世界がこの世に現れた時、人間は甘露の霊味を味う事が出来るのである。

本教は今やこの理想の実現に努力している。いかなる迫害、いかなる困難があろうが、この目的の為には、本教は喜び勇んで進むのである。かしくて本教が世界の隅々に行き渡り、世界一列の心澄み、人間が神において真の兄弟たるを自覚し、甘露台が建設せられたなら、世界が真の平和を見出すのである。

 

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