増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

教祖略伝 谷底(二)

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一家孤独の淋しい中にあって、秀司殿と小寒子様とはよく教祖に事え、その御心を慰めて居られた。が限りなき慈悲の充ちた教祖は、貧困の間にあっても人に恵むを忘れず、在るに任せて施したまうので、最早落ちるに道なきどん底の生活に進み入られた。

秀司様が黒紋付を着て、青物を近村に売り歩き、家計を助けられたもの、教祖が灯すべき油もつき、軒より指す月の光の下で、糸紡ぎをなされたもの、この当時の事である。小寒子様も教祖の手伝いをして家計を助けられた。

教祖が晩年その当時を回想して、鼠一疋も出て来なかったと仰せられたが、この一言に徴しても、如何に窮迫して日々地を送られたかを、察知するに難くない。

月光の冴夜、荒れ果てたる屋敷跡を眺められた時、教祖を始め秀司殿小寒子様が、如何に無量の感慨に咽ばれたことであろう。昨日は豪家に人となり、今日はどん底に生活を送る、神命の厳なる、末代のその光は輝かねばならぬ。

 

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教祖略伝 谷底(一)

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母屋取りこぼち後、東側にある掘立小屋の納屋に移り住まわれた

本宅は売払われ、夫善兵衞殿は死去せられ、残るは田地三町歩と屋敷のみとなった。教祖は田地を十年間の年切質に入れ、屋敷内の伏込柱で八畳二間の家を建て、土蔵よりここに移られた。

その当時既に長女政子様は、豊田村の福井家に嫁し、三女春子様は櫟本の梶本家に嫁いで、中山家には長男の秀司殿と、末女の小寒子様と、教祖の三人が淋しうその日を暮らして居られた。

夫在世中は未だしも、逝去の後は、親族は次第に不付合となり、知己の人々も誰訪ねる者もなく、村人は嘲笑と猜疑の眼を以て眺め、かつては教祖の慈悲に浴したる者も、誰一人立ち寄る者さえ無くなった。

 

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教祖略伝 苦悶(五)

 

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中山家

斯くの如き道筋を通りて、やがて田地の一部を売り払われたが、更に教祖は本宅を売り払うことを乞われた。夫善兵衞氏もあまりの事と、神様の思召でもそうはお請け出来ぬと、断然と断られた。しかるにその夜突然発熱して、教祖は大病人となり、俄に痩せ衰へられた。夫もこの様子を見ては、打ち捨て置かれずと、直ちに神命に従う旨を答へられると、三日目には全快せられて常の情態に復せられた。

本宅を売却する為、建物を取毀ちにかかられた日、教祖はこれから世界の普請に掛かる、こんな目出度いことはない、皆様祝うて下されと、手伝人に酒肴を出された。

嘉永六年春二月、中山家が斯く一歩一歩谷底へ落ちて行く真盛りに、四十四年の間連れ添われた善兵衞殿は、六十六歳を限りとして、黄泉の客となられたのである。教祖は恩愛の情を移して、神意の遂行を以て、その供養に代へんと勤しみたもうた。

 

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教祖略伝 苦悶(四)

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夜の宮池(三島神社旧地)

もし自分さへなかったら、神命も下らず、夫も苦労せず、子供達も難儀せず、親族の干渉もなく、村人の笑いもあらず、かくの如く思い詰められた教祖は、断然身を捨てて、人々の難儀を救わんと、強き覚悟を決められた。

時に屋敷内の井戸に身を投げんと飛び込まんとせられたのも、冬の一夜氏神の池に近づきて、将に身を躍らして飛び込まんとせられたのも、亦この決心の為である。然し井戸や池に近づきたまへば、忽ち身体の自由を失い、何処ともなく短気を出すのやないと聞えるので、教祖は忽然醒めたる如く、神命の尊さを自覚して、思い直して後へ戻られると、身は自由に動くのであった。

 

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教祖略伝 苦悶(三)

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然るに神は更に神命の遂行を急ぎたまうので、教祖は田地を売払わんことを乞われた。忍耐強き夫善兵衞殿も、一家の将来、子の将来、この前途を想うては、唯々と従う訳には行かぬ。教祖に白無垢を着せ、仏壇の前に座らせ、心中の苦悶を告げて、教祖を詰責さられた。

又真夜中に、家伝の実刀を取り出し、教祖の枕頭に立ちてこれを抜き、刀の威力によって憑物ならば退散せ、気違いなら鎮静せよと、涙を流しさめざめと泣かれたこともあった。

この夫の苦悶を見て、教祖は神一条の理を説き、神命の如何に重きかを説き明かされたが、家運は次第に傾き、親戚や村人からは笑われ、その間に立ちて夫の苦心せられるを見ては、人間としての教祖は、最早耐えることが出来なかた

 

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教祖略伝 苦悶(二)

 

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ご入嫁当時の中山家

中山家の親戚や友人や知人の人々が、教祖の行為が非常識なのを危み、屡々夫に忠告さられるので、善兵衞殿も教祖の行為を無理に止めんと試みられることもあったが、教祖の身上重患になり、時には三十日間も絶食せられるので、又も神命に従うの止むなきに至ることが度々であった。

斯くして更に米麦等、在庫の品々を売却して、谷底に道へと進みたもうたので、村人を始め隣村の人々まで、教祖を指さして狐付き狸付き気違い等と、悪罵を浴びせくるに至った。

これを聞いた親戚の人々や、友人、知己の人々も、今は中山家将来の為に捨て置き難しとなし、善兵衞殿い苦諌せられると共に、貧乏神は退散せしめねばならぬというので、教祖を責め苛まれたことさえあった。

 

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教祖略伝 苦悶(一)

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神命によりて四十一歳を一期として、教祖は神の社となりたもうた。神は教祖に三千世界を助けるために、貧のどん底に落ちきれと仰せられる。教祖の御苦悶は、この神命遂行の一事にある。

神意に従い教祖は先ず、自分の身に付けた物を人々に施したまい、次に子供達の物や夫の物を施したまうた。

夫善兵衞殿も慈悲心のある方なれば、教祖が施物さられるを、嫌い惜しまれるが如きことはないが、不相応なる施しは、家財を傾かせる基なれば、時々これを諭し戒められた。

教祖も夫の意志をよく了解して居られたが、神意を実現する使命の前には、如何なる障害をも琲せられる極めて強き信仰を持たせられたのである。夫の意に従いたまわぬこともあった。

 

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教祖略伝 神懸(三)

f:id:kosetu-tenkei:20210817100113j:plain10月26日夜、約束の年限に至り十柱の神々が教祖に次々と神懸り、くにとこたちの命からいざなみの命までその守護と働きを宣託しながら天降られ、遂に人類の表に出現した

夫善兵衞殿もこれはと驚かれたが、妻は四人の母で乳呑子もあること故、御辞退を願うと、神の要求を拒絶せられた所、神の命に背けば一家断絶させるが承知か、との厳かなる神命であった。

この不思議な事件の報知に接し、親戚の人々より知己の人々まで集まり、神命を如何にすべきやと評議せられたが、重ねて退散を乞うにしかずとて、善兵衞殿より再び、卑しき百姓家より他に結構な家が沢山あれば、他家へ御降りを願うと乞われた。然るに教祖は、屋敷の因縁、身の因縁、旬刻限を見て天降った。決して退散する神に非ずとの仰せであった。

二十四日より二十六日まで、三日の間神と人とが押問答を続けられたが、その間教祖は一滴の水も一粒の飯も召されず、昼夜厳然と端座して、神命遂行の任に付かれていた。

その有様を見るに堪へ兼ね、二十六日の朝五ッ時に、夫善兵衞殿より神様の仰せ通り従うべき旨を答へられた。

 時に教祖は夢に醒めた如く、平常の教祖に復したまい、秀司殿の足痛も、夫善兵衞の眼疾も、嘘の如く平癒したので、何れも不思議の感に打たれたのである。

その夜、教祖の寝室の天井で、突然大きな物音がした。不図教祖が目を醒まされると、身が何かに圧せられるが如く、重く感ぜられると、我は国常立命であると仰せられ、又次の神が懸られるという様に、十柱の神々が順次天降られた。

この天保九年十月二十六日は、本教立教の第一日であるが故に、毎年秋季の大祭は、この日を以て執行せられるのである。

 

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教祖略伝 神懸(二)

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 然るに毎度加持台となる、勾田村のそよという女が不在のため、やむなく教祖自ら加持台となりて、翌二十四日の早朝より、市兵衞は丹精を擢んで祈祷を凝らした。

祈祷の進むに従い、教祖の容姿が俄に変じ、威儀厳然として、何神様なりやとの問いに、我は天の将軍なりと答えたもうた。天の将軍とは何神様なりやとの尋ねに、元の神、実の神で世界一列助ける為に天降ったとの答えであった。

並居る人々も唯ならぬ光景に、茫然自失して驚くのみであったが、教祖は壮重なる威厳に充ちた声で、みきの身体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けるとの宣託であった。

 

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教祖略伝 神懸(一)

 

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天保八年十月二十六日、長男秀司殿が田に出て麦蒔きに従事中、突然足痛を感じて帰宅さられた。医者を呼んだり、膏薬を貼ったり手を尽くしても効験がないので、長瀧村の市兵衞という修験者を招き、祈祷を依頼せられた所、不思議にも全快せられた。

然し暫く時日を経過すると、又足痛が起こるので、起これば修験者を頼み、頼めば癒るという工合で、甚だ不思議な病気であったが、八、九回もこれを繰返す間に、一ヶ年は暮れて行った。この年の十二月十五日、五女小寒子様が出生された。

天保九年十月二十三日、秀司殿の足痛又また起こり、教祖も腰痛を病み、夫善兵衞殿も眼疾に罹られた。幸いその日は亥の子にて隣家に来れる市兵衞を招き祈祷を乞われたのである。

 

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教祖略伝 主婦(五)

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中山家の東側に位置し、石上神の奥の宮といわれている八つ岩がある東の山を拝める様に布留御魂神をお祀りしていた氏神春日神

医者、薬、禁厭と、手を変え品を代えて看護の限りを尽くされたが、その効が少しも見えないので、この上は神仏の加護によるの外なしと、奈良の二月堂、春日神社、稗田の大師、武蔵野の不動明王等に跣足詣の願をかけ、氏神へは殊に丹精を擢んでて我が娘二人の壽命に代えて、預かり子の難病を救われたく、尚不足ならば、満願の後は我が身を召させたまへと、一心に祈願をなされた。

誠は天に通じ至誠は鬼神を泣かすというが、瀕死の預かり子も教祖の至誠により、翌日から熱は引き疱瘡は落痂て全快するに至った。その両親は喜びのあまり咽び泣いた。

隣家の喜び引き代え、その後中山家には不幸が続出した。天保元年教祖三十三歳の時、二女安子様が逝去さられ、翌年九月三女春子様を、天保四年四女常子様を産まれたが、天保六年常子様は三歳に夭死された。

 

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教祖略伝 主婦(四)

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文政八年二十八歳にして、長女政子様を産み、三十歳の時、次女安子様を産みたまいしが、政子様は後に豊田村の福井家に嫁し、安子様は天保元年、四歳にて逝去せられた。

その当時中山家に隣家の子供のが、乳不足の為衰弱して、両親は殊に困難しておられた。教祖は一男二女あるに拘わらず、時々乳を与えておられたが、後には我が家へ引取り、育児を世話までなされたので、その丹精により預り子も元気付き、教祖も喜んでおられた。

然るに日ならずして俄に発熱し、疱瘡に罹りたるのみならず、十一日目から黒疱瘡にいう重篤に変じた。その両親の悲嘆を見るに忍びず、且同家に相続者の絶えるを案じ、殊には世話中の出来事なれば、如何にもして助けんと、安子様を人に預けて、日夜看護に従事せられた。

 

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教祖略伝 主婦(三)

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教祖は母となりて育児の任を加へたもうたが、家事の整理は素より、如何なる仕事も厭いなく、田畑に出ては男に優る耕作をなし、機にかかりては一日に二日分を織りたまい、荒田起こしと溝掘りの外は、如何なる家業にも従い、夜は更ける迄縫物に励み、姑の手足を摩りなどして慰められた。

殊に天性ともいうべき慈悲心は、年を重ねていよいよ、深く、下女下男は更なり、隣家に人々に対しても、時に当り事に触れて迸るが如く現れた。同村の貧困なる一人の者が、中山家の米倉をより米を盗まんとするを、教祖が許して改悔せしめられたるが如き、女乞食に食と衣を与え、その子に乳を呑ませられたるが如き、下男藤助の怠情を改ためせられたる如き、下女かのが夫善兵衞殿と通じ、教祖を毒害せんとせしも、教祖は嫉妬心の溺れず、かのを妹の如く愛して悔悟せしめらえたる如き、何れも教祖の異常なる慈悲心の発露にして女性の範とすべきである。

 

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教祖略伝 主婦(二)

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善福寺


入嫁後は夫に対して貞操に、親には孝順の道を立て、下女下男に憐れみ、隣家の人々に親切を尽くし、家事を手伝われるの外、自ら労働をも為したもうた。両親はこれを見ていたく満足せられ、教祖十六歳のとき、世帯一切を委せて隠居さられた。以来教祖は一家の主婦として、家事万端を処理せられる身となられた。

御年十九歳の時、浄土欣求の信仰次第に深く、勾田村の善福寺で五重相伝の伝授を受けられた。五重相伝は浄土宗の重要なる信仰的儀式にして、特別なる七日間の修法を経て、授戒されれるもので、多くは老年者が受けるのであるが、教祖の強烈なる信仰は直ちにその本願を遂行せられた。

文政三年六月十二日、教祖二十三の時、舅前善右衞門殿歿せられ、同年九月頃より教祖は懐胎せられた。その翌年臨月の身をもって、病める姑を背負い、屋敷内を歩き、又は知人の家の伴い、姑の望みを果して、自分の喜びとせられた。斯くて文政四年七月二十四日、長男秀司殿を生ませられ、母としての一歩を踏みたもうた。

 

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教祖略伝 主婦(一)

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布留御魂神が宿る十種神宝を御神体として祀っていた物部氏の総氏家石上神宮

毎年九月十五日は石上神宮の祭礼である。或年教祖は父親に伴われ庄屋敷村の中山家へ、その祭礼の招かれて訪れられた。中山家と前川家は姻戚の間で、中山家も同村の庄屋年寄役等を勤められた名家であり、且田地持ちと謳われた豪家であった。同家の長男善兵衞殿は、既に二十歳を越え、良縁をと求められておったので、この日両家の親と親との間に、教祖と善兵衞殿の婚約が取結ばれた。

後日両親より中山家へ入嫁の件を申し渡された時、教祖は遁世の志願を述べて一度は辞退されたが、両親の切なる勧めに従い、入嫁後は朝夕仏に対する勤行に許可を条件として、結婚を承認せられた。

中山家も浄土宗の檀家であったから、この条件を喜ばされ、愈々婚約が成立したので、文化七年九月十五日、教祖十三歳の時、娘分として中山家に足入れせれた。この時善兵衞殿は二十三歳にして、正式の結婚はその翌年に行われた。

 

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