増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

中山みき伝

教祖略伝 布教(一)

お針子を取り裁縫を教え狐憑きの類ではないことを証し、日々の暮らしを支えられた 帯屋疱瘡は萬道開けと教義にある如く、教祖の教は帯屋許しにその端を発している。教祖四十四歳の時、明日は何処へも出るのやないとの神意により、在宅された所、突然流産さら…

教祖略伝 谷底(二)

一家孤独の淋しい中にあって、秀司殿と小寒子様とはよく教祖に事え、その御心を慰めて居られた。が限りなき慈悲の充ちた教祖は、貧困の間にあっても人に恵むを忘れず、在るに任せて施したまうので、最早落ちるに道なきどん底の生活に進み入られた。 秀司様が…

教祖略伝 谷底(一)

母屋取りこぼち後、東側にある掘立小屋の納屋に移り住まわれた 本宅は売払われ、夫善兵衞殿は死去せられ、残るは田地三町歩と屋敷のみとなった。教祖は田地を十年間の年切質に入れ、屋敷内の伏込柱で八畳二間の家を建て、土蔵よりここに移られた。 その当時…

教祖略伝 苦悶(五)

中山家 斯くの如き道筋を通りて、やがて田地の一部を売り払われたが、更に教祖は本宅を売り払うことを乞われた。夫善兵衞氏もあまりの事と、神様の思召でもそうはお請け出来ぬと、断然と断られた。しかるにその夜突然発熱して、教祖は大病人となり、俄に痩せ…

教祖略伝 苦悶(四)

夜の宮池(三島神社旧地) もし自分さへなかったら、神命も下らず、夫も苦労せず、子供達も難儀せず、親族の干渉もなく、村人の笑いもあらず、かくの如く思い詰められた教祖は、断然身を捨てて、人々の難儀を救わんと、強き覚悟を決められた。 時に屋敷内の…

教祖略伝 苦悶(三)

然るに神は更に神命の遂行を急ぎたまうので、教祖は田地を売払わんことを乞われた。忍耐強き夫善兵衞殿も、一家の将来、子の将来、この前途を想うては、唯々と従う訳には行かぬ。教祖に白無垢を着せ、仏壇の前に座らせ、心中の苦悶を告げて、教祖を詰責さら…

教祖略伝 苦悶(二)

ご入嫁当時の中山家 中山家の親戚や友人や知人の人々が、教祖の行為が非常識なのを危み、屡々夫に忠告さられるので、善兵衞殿も教祖の行為を無理に止めんと試みられることもあったが、教祖の身上重患になり、時には三十日間も絶食せられるので、又も神命に従…

教祖略伝 苦悶(一)

神命によりて四十一歳を一期として、教祖は神の社となりたもうた。神は教祖に三千世界を助けるために、貧のどん底に落ちきれと仰せられる。教祖の御苦悶は、この神命遂行の一事にある。 神意に従い教祖は先ず、自分の身に付けた物を人々に施したまい、次に子…

教祖略伝 神懸(三)

10月26日夜、約束の年限に至り十柱の神々が教祖に次々と神懸り、くにとこたちの命からいざなみの命までその守護と働きを宣託しながら天降られ、遂に人類の表に出現した 夫善兵衞殿もこれはと驚かれたが、妻は四人の母で乳呑子もあること故、御辞退を願う…

教祖略伝 神懸(二)

然るに毎度加持台となる、勾田村のそよという女が不在のため、やむなく教祖自ら加持台となりて、翌二十四日の早朝より、市兵衞は丹精を擢んで祈祷を凝らした。 祈祷の進むに従い、教祖の容姿が俄に変じ、威儀厳然として、何神様なりやとの問いに、我は天の将…

教祖略伝 神懸(一)

天保八年十月二十六日、長男秀司殿が田に出て麦蒔きに従事中、突然足痛を感じて帰宅さられた。医者を呼んだり、膏薬を貼ったり手を尽くしても効験がないので、長瀧村の市兵衞という修験者を招き、祈祷を依頼せられた所、不思議にも全快せられた。 然し暫く時…

教祖略伝 主婦(五)

中山家の東側に位置し、石上神の奥の宮といわれている八つ岩がある東の山を拝める様に布留御魂神をお祀りしていた氏神春日神社 医者、薬、禁厭と、手を変え品を代えて看護の限りを尽くされたが、その効が少しも見えないので、この上は神仏の加護によるの外な…

教祖略伝 主婦(四)

文政八年二十八歳にして、長女政子様を産み、三十歳の時、次女安子様を産みたまいしが、政子様は後に豊田村の福井家に嫁し、安子様は天保元年、四歳にて逝去せられた。 その当時中山家に隣家の子供のが、乳不足の為衰弱して、両親は殊に困難しておられた。教…

教祖略伝 主婦(三)

教祖は母となりて育児の任を加へたもうたが、家事の整理は素より、如何なる仕事も厭いなく、田畑に出ては男に優る耕作をなし、機にかかりては一日に二日分を織りたまい、荒田起こしと溝掘りの外は、如何なる家業にも従い、夜は更ける迄縫物に励み、姑の手足…

教祖略伝 主婦(二)

善福寺 入嫁後は夫に対して貞操に、親には孝順の道を立て、下女下男に憐れみ、隣家の人々に親切を尽くし、家事を手伝われるの外、自ら労働をも為したもうた。両親はこれを見ていたく満足せられ、教祖十六歳のとき、世帯一切を委せて隠居さられた。以来教祖は…

教祖略伝 主婦(一)

布留御魂神が宿る十種神宝を御神体として祀っていた物部氏の総氏家・石上神宮 毎年九月十五日は石上神宮の祭礼である。或年教祖は父親に伴われ庄屋敷村の中山家へ、その祭礼の招かれて訪れられた。中山家と前川家は姻戚の間で、中山家も同村の庄屋年寄役等を…

教祖略伝 幼時(二)

教祖手作りのぬいぐるみ 教祖は以上の如く、幼少の時より怜悧の質であらせられたが、又愛情深き性能をも有せられた。七、八歳の頃、麦秋や米秋で多忙なるを見て、自ら隣家の子供を遊ばせ、泣く児があれば、父母より貰った菓子を与えて慰め、又自分の作られた…

教祖略伝 幼時(一)

中山みき生家前川家 我が教祖は寛政十年四月十八日、大和国三昧田村の前川家に誕生あらせられた。前川家は領主藤堂家より無足人として名字帯刀を許されたる豪家にして、父は半七、母は絹子といい、教祖は二男三女の瑞雲棚引いて、里人をして奇異の感をお越さ…

教祖(三)

教祖の道が八方に通じ、地場に帰来する者多きを加うると共に、教祖に対する誹謗の声は高くなった。村人の反対、僧侶の脅迫、神官の壓迫に次いで官憲の干渉となり、教祖は老齢の身を以て縲絏の辱めを受けたまうこと十数回に及んだ。しかも神命を奉じたまう教…

教祖(二)

教祖四十一歳の時、夫善兵衞眼疾に罹り、長男秀治足痛を病み、教祖亦腰痛を覚えたもうたので、修験者を招きて祈祷を乞い、教祖自ら加持台となりたもう。祈祷の進むや教祖の容姿たちまち変じ、厳然として、我は天の将軍なりと宣せられ、教祖の身体、中山家の…

教祖(一)

教祖は名をみきと申し、寛政十年四月十八日いざなみの命の霊を宿して産まれたまうた。その因縁によりて御年十二歳で人世の無常を観じ、尼法師たらんと願いたもうた。十三歳の時因縁の地たる中山家に入家し、十六歳で主婦となり、十九歳にして五重相伝を受け…