増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

2023-01-01から1年間の記事一覧

断片の話(四)

人間の心を汚くするものは、人間心と、物心とである。人間心とは、人を相手にして生活を律しようとするこゝろであって、物心とは、物ばかりに目をつけて暮らし行こうする心である。この人間心と物心とがお互いの心から離れない内は、どうしても教祖の道を通…

断片の話(三)

人間は、ただ単に生きると云うことだけが結構ならば、何も信仰をする必要はないのである。太陽がどんな物にも一様の光をかけて下さる様に、神様も誰彼の差別なく絶えず御守護をして下さっているのであり、けれども、神様の命令をすなおに聞き、真面目に道の…

断片の話(二)

人間がお互いに、自ら積んだ埃のために死なねばならないのは当然のことである。これは当り前のことなのであるけれども、人間は死んでは困るからと云って、神様に無理なお願いをして、この世に置いて頂きたいと頼むのである。 私等はこの無理な願いを神様に叶…

断片の話(一)

お話と云うものは、お互が道を通るに当って、実地で行うために聞かして頂くのである。百万言のお話も、結局めい/\の心の誠の心を出さんが為である。それだけ沢山の話を覚えたからと云って、それで神様の御守護が特別にあると云う訳のものではない。その人…

感想(二)

近代の人は伝統を悪く見たがる傾向がある。然し伝統そのものは決して悪いものではない。寧ろそれが伝統化されているだけ、その当時に於ては価値のあったものと見なければならない。所が後世になると、その内容が失はれて形式だけば伝統化して来る。従って少…

感想(一)

人間と人間とが相接触する機会は、社会が開花されて行く程複雑になって来る。従ってその接触の仕方が昔とは次第に異なって来る。昔は一村乃至は近郷の人々と接触するに過ぎなかったから、接触の範囲は狭かったが、その接触には深味があった。然るに近頃は接…

立教の意義及び組織(二)

けれども信仰の中心制度になるべき教会組織に至っては、以前の元のまゝに制度と踏襲して、大教会、教会、分教会、の如き外形的要素には多少の変遷はあったとはいへ、その根本的組織に於ては、全然如如等の変革をも見ず、そのまゝ今日まで推進して来たのであ…

立教の意義及び組織(一)

本教のその立教の目的に於て、一は世の立替を標榜し、一は地場の理を現す、即ち親里の理を表現しているのである。 この二つの目的は、神意の上に於ては、同一の性質を有しているものであって、道はこの二つの目的を如実に実現し、完成せんがために開かれたも…

閃光禄(二)

又神様は「神の方には倍の力や」仰せられているから、どんな場合でもビク/\したり、心配をしたりすることはないのである。けれども少しむつかしいことや、恐ろしいことに出会うと、よくビク/\するものである。だがそんなことでは神様が安心して入り込む…

閃光禄(一)

神様は、自分のことを神と仰せられたこともあれば、月日と仰せられたこともある。さあという、まさかの時には、自分は神の代理、月日の身代りと云うだけの心がなければならぬのである。 お授けを頂くために別席を運ぶ。それはお話を聞いて、心の掃除をして貰…

理の光 神意と人心(三)

神様は、時代々々の人心の傾向に応じて、種々な手段を以てこの道をお広め下さるのである。道は必ず善でなければ広まらんという訳ものものではなので、悪でも道を広めることは出来るのである。それは丁度親が可愛い子供の頭を打つ様なものであって、頭を打つ…

理の光 神意と人心(二)

神様の思召と、人間の考へとは兎角違うものである。人間の考えでこれが好かろうと思っていても、神様の御考へではそうでない時がある。このことは教祖が御昇天せられた時のことを思うとよく分かるのである。神様はその時に高弟の方々に対して「扉を開いて世…

理の光 神意と人心(一)

この道は、神の深い思召によって成立ったのであるから、なにごとに拘わらず、神が蔭とないひなたとなってお廣め下されているのである。決して人間が人間心を以て、どうしようと思っても出来ないのである。それでこの道と神様とは、如何なる場合でも離れるこ…

不弱不死(二)

以上二つは誰しも其の可能を、教理的に会得出来るとしても、今一つ死なずと云う事は容易に分からん事なのであります。それは世界の心が澄んで、甘露台が置かれたならば、人間の定命が百十五才に定められると云う事は、聞いて居ります。又それから先は心次第…

不弱不死

此の道は萬助けの道でありますから、何助けられんと云う事は仰せられぬのであります。人間も心次第に依っては、どんな珍らし不思議な助けをして下さるのであります。 即ち人間が真実の心になって願へば、真実の心相応の理は見せて下さるのであります。其の中…

往還の道(二)

それで或時には信徒の人々に対しては、奈良初瀬七里の間が都会になる事につて、妾にはそうなるのが見えて居るが、お前等には見えないかと仰せになった事があります。斯様に御教祖には百年以後の事までも、眼の前に在るかの様に見えて居たのであります。 然し…

往還の道(一)

御教祖の御在世中に、此の道に付かれた人々は、教理が理解出来たから、此の道へ付いて来られたのではありません。なぜなら教祖の仰せられることは、現在の事もあれば十年廿年若しくは百年後の事もあるのではありますから、それを理解した上でなければ、信仰…