増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

中山みき

立教の意義及び組織(二)

けれども信仰の中心制度になるべき教会組織に至っては、以前の元のまゝに制度と踏襲して、大教会、教会、分教会、の如き外形的要素には多少の変遷はあったとはいへ、その根本的組織に於ては、全然如如等の変革をも見ず、そのまゝ今日まで推進して来たのであ…

立教の意義及び組織(一)

本教のその立教の目的に於て、一は世の立替を標榜し、一は地場の理を現す、即ち親里の理を表現しているのである。 この二つの目的は、神意の上に於ては、同一の性質を有しているものであって、道はこの二つの目的を如実に実現し、完成せんがために開かれたも…

閃光禄(二)

又神様は「神の方には倍の力や」仰せられているから、どんな場合でもビク/\したり、心配をしたりすることはないのである。けれども少しむつかしいことや、恐ろしいことに出会うと、よくビク/\するものである。だがそんなことでは神様が安心して入り込む…

閃光禄(一)

神様は、自分のことを神と仰せられたこともあれば、月日と仰せられたこともある。さあという、まさかの時には、自分は神の代理、月日の身代りと云うだけの心がなければならぬのである。 お授けを頂くために別席を運ぶ。それはお話を聞いて、心の掃除をして貰…

理の光 神意と人心(三)

神様は、時代々々の人心の傾向に応じて、種々な手段を以てこの道をお広め下さるのである。道は必ず善でなければ広まらんという訳ものものではなので、悪でも道を広めることは出来るのである。それは丁度親が可愛い子供の頭を打つ様なものであって、頭を打つ…

理の光 神意と人心(二)

神様の思召と、人間の考へとは兎角違うものである。人間の考えでこれが好かろうと思っていても、神様の御考へではそうでない時がある。このことは教祖が御昇天せられた時のことを思うとよく分かるのである。神様はその時に高弟の方々に対して「扉を開いて世…

不弱不死

此の道は萬助けの道でありますから、何助けられんと云う事は仰せられぬのであります。人間も心次第に依っては、どんな珍らし不思議な助けをして下さるのであります。 即ち人間が真実の心になって願へば、真実の心相応の理は見せて下さるのであります。其の中…

往還の道(二)

それで或時には信徒の人々に対しては、奈良初瀬七里の間が都会になる事につて、妾にはそうなるのが見えて居るが、お前等には見えないかと仰せになった事があります。斯様に御教祖には百年以後の事までも、眼の前に在るかの様に見えて居たのであります。 然し…

往還の道(一)

御教祖の御在世中に、此の道に付かれた人々は、教理が理解出来たから、此の道へ付いて来られたのではありません。なぜなら教祖の仰せられることは、現在の事もあれば十年廿年若しくは百年後の事もあるのではありますから、それを理解した上でなければ、信仰…

神の受取(二)

なぜなら此の世界にありとあらゆるものは、皆神様が人間に御貸し下されて居るのでありますから、云いかへれば皆神様のものであります。それらのものを差し上げたからと云うでも、それは要するに返した迄であって、差し上げたと云うことは云えないのでありま…

神の受取(一)

神様の人間とは違って、たとへ千里隔って居ようとも、理が通っているのありますから、心通り皆映って居るのあります。人間の方から云へば、例えどんな寒村僻地に居ようとも又如何に人の眼に付かない所で心を使うても、それは恰も鏡に物の映る様に、神様の御…

神の透見(二)

そこで人間は外に向かって居る眼を内に転じて、その心の底にある鏡に映る自分の姿を見なければならぬのであります。左様すると人々が、表でしている事の裏は、どういう事であるかと云う事が、明らかに分かって来るのであります。すると神様が人間を御覧にな…

神の見定め(二)

親が子の将来を思うて、子供が未だ小学校へ通うて居る時から、行く末では大学まで入れてやろうと、其の学資を準備して、子供の成人を待ち兼ねて居ても、親の心子知らずで、少しも勉強もせなければ、学校へ行っても落第する。 悪い友達を作って、悪い所へ遊び…

神の見定め(一)

身上は神様から人間が、貸し与へて頂いて居るものでありますが、心一つは我が理でありますから、自分の思う様に使へるのであります。即ち好い方へ使おうと、悪い方へ使おうと、人間に自由にお与え下されて居るのであります。 この自由を神様から人間が頂いて…

死と決心(二)

これを良く分かる事柄について申しましたら、神様の御話を聞いて、慾の心持って通ると云うのは、大変間違った心使いである事が分かって居ても、どうしてもそれを取る気になれない。こゝで、一寸云うて置かねばならぬことは、此の事は悪い事だと知る事と、悪…

死と決心(一)

お互人間に取って、最も厭な恐ろしいものは、何でもあると云へば、それは云う迄もなく死ぬことであります。そして又此の死ぬと云う事は、人間は必ず最後に出合はねばならぬものであります。然るに多くの人は、其の死と云う事については、別段深く考えないの…

勇むは神の心(二)

こうして神様の御心に適う様に、懴悔をしたならば勇みが出て来ます。すれば神様の御心に添うて働かして頂く様になりますから、心が何時も喜び勇んで来るのであります。それを御神楽歌に、いつまで信心したとても、ようきづくめである程に、と仰せられたので…

勇むは神の心(一)

一軒の家に於て、其の主人公たる者が、不愉快な顔をして居たならば、家族の者は決して心の勇むものではありません。主人が面白そうな気持ちで暮らして居るのと、一家の者の心持ちよく暮らせます。是から考へますと、家族として自分が日々勇んで通ろうと思う…

道の変わり目(二)

そこで此の変り目と云うのは、御教祖が信徒を色々試しにもかけ、手入れも仕込みもして御出になったのが、今度は大体の人出も出来て来た所から、世界の人々を助ける為に、御働きになろうと云う様に変わって来たのを、仰せられたのであります。 そこで道筋の理…

道の変わり目(一)

神様のお道と云うのは、決して変わるものではありません。理は末代と仰せられた如く、天の理と云うものは変らぬのが天の理であります。然るに道が変わると仰せられたのは、道そのものが変わる云う意味ではありません。道そのものは変わるもではなく、通る道…

神の踏張(二)

しかるに多くの世界の人を見ますと、我が身が苦しいか、困るとかいう様に事が出て来ますと、直ぐもう今度は助からぬとか、死ぬ方がましやとか、我が身から挨拶している様な人が多いのであります。それを神様は我が口からいへば、是非はなかろうと仰せられま…

神の踏張(一)

人間がこの世に住んで行く間には、沢山の苦しい事がや悲しい事のあるのは事実であります。その苦しい事や悲しい事を助ける為に、神様が表へ現れて、この道をお付け下れたのであります。それ故我々が神様の信仰するに至ったのであります。従って神様はこの道…

勤と世界(二)

しからば、神様の思し召しというのは、どういうのであるかと申しますると、一寸考えたらこの道は、病助けの様に思われるのでありますが、この道は決して病助けのみの道ではありません。病気を助けというのは、一つの方便でありまして、真の神様の思し召しと…

勤と世界(一)

心を揃えるというのは、凡ての人間が同じ方針の下に、心を一致して働く事でありまして、例えば兵士が足並みを揃えて、将校の命令通りに動く様に、神様の思し召し通りに働くことをいうのであります。もし一隊の兵士の中、一人足を乱す者があったら、それに依…

人間の創造

神様が人間を御造りになったのは、この世が泥海であった時、月日両神いたばかりでは何の楽しみもないから、人間を造り陽気暮らしをさせて、それを見て神も共に楽しもうという所から、御造りになったのでのあります。それは丁度人間が我が子を見て、楽しむと…

病や化物

この御道から申しましたら、この世に病気というものは無いのであります。何故ならこの病気というのは、人間の心に間違いがあるから現れて来るので、即ち心通りの理が身に映っているのであります。されば人間は自分の心から埃を払うて、真実の心になって通っ…

心次第の道(二)

しからば神様は必要があり、且望んだならば下さるかというと、未だそれだけでは行かぬのであります。もし望んだことがその通りに与えられたるならば、病人は皆助けられるべき筈であります。何故なら病人が身体を健康に持つという事は、必要であり且望んでい…

心次第の道(一)

神様というものは、人間の如く限りあるものではありません。全知全能で如何なる事でも知らぬ事なく、出来ぬ事はありません。それ故人間が神様に御願いしたならば、神様は必ず人間の望むものを、御与え下さるのであります。それは唯単に人間が、病気を助けて…

千里も一夜

神様の御働きは自由自在でありますから、今というたら今直ぐ、どんな働きもなさるのであります。しかるに人間というものは、有限な肉体を持っておりますから、神様の様な自由自在に働きは出来ないのであります。それで人間は神様の御働きをも我が身にあてて…

神は無敵

神様はその姿は見えませんけれども、その働きは丁度空気の様なもので、世界の何れの地に行きましても、充ち/\ているのであります。又その空気を呼吸して、人間が生きている如く、神様の御守護に依って生きて居るのでありますから、我々の肉体に温み水気の…