増野鼓雪と天啓

増野鼓雪の書き残した文章を通じて真実の天啓を探求していく

親神教理

天地は実親

人間の親と云えば両親より無い筈であるが、然し此の両親は単に生みおろし育ててくれた親であるから、神様は仮親と云われたのであります。何故ならもし親が自分の子供を自分の力で造ったのならば、親に孝行な好い子を造るべき筈であるが、事実は中々左様は行…

根の力(二)

しかしこれは余事でありますが、とにかく神様は随時随時に現れて、子を守って居られた事は明らかであります。所が約束の年限が来たので、此の道を始める為に、神様が何れも元の屋敷に、お帰りなったのであります。そしてこれからは木の根、即ち日本の国の価…

むつかしい道 

神様の道は仮名に仮名を付けた様な、やわらかやさしい道であると聞かして貰うて居るのと、難しい道とは大変な相違の様に思われるのでありますが、これは二つの事を一つにして考えるから、違って来るのであります。何故と申しましたら、神様の御説き下される…

人類の親

ご教祖の最初の思召から伺うと、御在世中、に甘露台を建てて、その台によって世界一列を澄す思召しであったのでありまります。然るに後に模様がかわって、世界を澄してから、甘露台を建設せられる事になりました。 そこでじきもつというのは、如何いうもので…

神の仕事

神様は親が我が子を思うのと同じで、助けたい一条の御心で居られるのでありますから、人間に難儀や苦労をかけたいと云うお心、少しもないのであります。 然るに、人間の世に苦しみが耐えないと云うのは、神様の思召に適う心使いをせぬ所から、我がと我が身に…

病気は手入

同じく此の道を信仰する者でも、其の心に立ち入って見たらば、千差万別であります。其の表麺は真実らしく見えても、心の汚ない者もあれば、心は真実でも、表は無骨な者あります。従って心を見通しなる神様から見られたらば、色々違って見えるから、手入する…

神人の和合

神様が人間をお造りになったのは、云う迄もなく人間が陽気に暮らすのを見て神も共に楽しみたいと云うお心からであります。故に人間が心を陽気に持って暮らのすのが、何より神様の御心に適うのであります。所が人間は日々陽気の頃で暮らす事が出来ない。見て…

悟得と神意

胸が分かると云う事は、大体に於て二つに分けて考える事が出来るのであります。其の一つは神様の胸と云うのであって即ち道を聞き分けて来たならば、次第に神様の思召が会得せられると見るのであります。今一つは、胸を各自の胸と見るのでありまして、自分の…

真実と守護

神様が在るとか無いとか思う人がありますが、これは要するに真実が無いからであります。神様の御言葉に、無いと云へば無い、在ると云へば在る、願う誠の心より見えて来る利益が神の姿やと仰せられたことがあります。 即ち神そのものは無形のものでありますか…

女松と男松

女松と男松 女松男松と教祖がいわれたのは、女性男性を意味して居られるので、本教に於ては普通男女の区別がないとせられて居るのであります。然しこれは決し男性女性そのものの、区別がないというのうではありません。神様が人間を対せられたる時、そこに区…

高山と谷底

高山に水がついて、谷底が無事であるという事は、自然の状態からいへば、到底考え及ぶ事ではありませんが、けれどもこの高山なり谷底なりを、人生の或比譬であると見るならば、こうした事はあり得るのであります。例へばこの水を人生の於ける或思潮と見るな…

神は支配者

この世界が神様の御支配に依って出来て居るという事は、今更改めていう迄もない事であります。然し人間の世界は、この神様の御力ではなく、人間の力に依って支配されて行くものだと、思うて居る人が沢山あるのであります。現に学者は、自然を人間が征服して…

親の心

人間が神様の御心を直ちに知らして頂くという事は出来ないのでありますから、神様は神の心は丁度親が我が子を思う時の心が、神その儘の心なのであります。所が人間というものは、我が身我が勝手の事ばかり考えて居りますから、親の心を知る事が出来ません。…

出産の理

世界では子供の事を神様よりの授かりものという通り、如何に人間が欲しいと思うても、子の産まれない人もあれば、有り過ぎてを困る程生まれる人もあります。斯様に子供が人間の力で如何ともする事が出来ないというのは、即ち神様の御守護を頂かねばならぬ事…

天災と神意

教祖は神様という事を説明するのに、人に応じてする種々に仰せられて居るのであります。御筆先を通読致しましても始めの方では神と仰せられ、神の思惑とか神の支配とかいうて居られますが、中程から月日というて、月日立腹とか月日残念とか仰せられ、最後に…

澄心の理

神様が人間を始めて御造りになった時は、この世は泥海であった。所が人間が三尺迄成人した時に、天地が分かれたのであります。それから次第に成長して知恵の仕込みも受け、学問の仕込みも受けて来たのであります。所が学問の仕込みには三千年と仰せになりま…

根を掘れ(二)

是は一例に過ぎませんが、世の中にこうした事は沢山あるのであります。 これ要するに自分の根というものに気付かずに、徒らに枝葉末端の事のみに、心を注いで居るからであります。 そこで神様は心静めて根を掘れ、そして根が如何なって居るかという事を、何…

根を掘れ(一)

一本の樹木に致しましても、人間の眼に見える所は僅かに幹から上で、その根は地下に埋もれて居て、見えないものであります。然し木の養分の大部分は、この根から吸収せられて、その枝葉が繁茂して行くのでありますから、草木に取っては、根は何より大切もの…

術と真実

術や法というのは、仙人や山伏の行うものであって、例へば火遁樹の術とか、真言秘密の法などというのでありますが、この道の出来る迄は、この法の随分行われたのであります。 所がこの御道が現れる頃になって、次第にその術や法が行われぬ様になり、今日では…

一家の人々

人間の心というものは、一名限りのもので、皆違うのであります。生れ変って来た道筋の違うだけ、その心の違うのは当然であります。従って親子であっても、兄弟でも夫婦でも、皆違うのであります。されば一軒の家にも美しい心を持った人もあれば、またその反…

牛馬の道(三)

こう聞かして貰って考えて見ますと、来世などは無いと云うて居る訳には行きません、例へ口で云うて居ても、事実が左様になって来たら、事実が人の心を得心させて行きます。それ所か、我が口から我が事を云う様になるのであります。 そのかわりに人間が、其の…

牛馬の道(二)

然し多くの人の中には、死んでから牛になろうが馬になろうが、そんな事まで心配しては居られん。此の世は太く短く面白く暮らしたら、それで好いのだと云う様な考えを持って居る人があります。こんな人には、未来と云うものに対しては、少しも考えぬのであり…

牛馬の道(一)

人間の身上は皆神樣からの貸物であり借物でありますが、其の借主は霊で、我が物と云うのは、心一つの理より無いのであります。そこで我が心に間違いがあれば身に障りの附く様に、人間の心が人間らしくない使い方をすれば、人間で無い衣物を借らねばらなぬも…

真実を需(もと)めよ(二)

斯様に心から真実の理が湧く様になれば、人の助かる道が、自然に分かって来るのでのであります。丁度清水で物を洗えば綺麗になる様に、その人の話しを聞けば、自然心が洗えて助かって行くのであります。故に何はさて置いても、自分の心の真実を見出さねばな…

真実を需(もと)めよ(一)

神樣が神に凭れる子供とういて居られるには、いう迄もなくこの道を信仰して居る者を、指さして居られるのでありますが、その子供に早く表へ出る模様せよと、仰せられて居るのであります。その表というのはどういう所であるかと申しますと、それは世界の事を…

心の雑草

凡そ人間には何れもその人として、通らならければならぬ道があるのであります。即ちそれは真の道であります。所が多くの人は、その真の道を通らない為に、その道に草が生えて居るのであります。草が生えてしまったならば、道が道としての用をなさない様に、…

人間創造の屋敷

屋敷とはいうまでもなく、元の中山家の屋敷であって、神樣の仰せに依ればこの世が未だ泥海世界であった時に、月日両神が現れて、道具衆を集め、人間を御造りなされたのであります。ところがその中で伊邪那美命が、どうしても神様の仰せに従はれぬ。そこで月…

肥の授け

肥一条というのは、いう迄もなく肥の事であります。教祖在世中に、肥の授けというのを御渡しになりました。 それは灰三合土三合糠三合、これを合わせて肥の御授けを頂かれた方が祈願して、田に置かれたならば、肥一駄のきゝ目があると仰せられたのであります…

理と心定め(二)  

その様に説くにしても聞くにしても、単なる諭しだけでは足らぬので、その理が説く者の胸に分かっていなければならぬのであります。それが分かるには、前に申した心の理から、身に現れる理を考えるのであります。それからその次には、我が心に現れる理と、自…

理と心定め(一)

我々が御道を研究するとか、勉強するとかいうのは、沢山の教理を聞くという事ではありません。それは私等を鍍金をして呉れるのみで、それに依って自分が変わるというのではありません。従ってお道の勉強は外からせられるのではなく、自己自身の内から、悟っ…